よつばと!ミニ原画展が思っていた以上にこぢんまりとしていて滞在時間は30分程度、えっさホイさっさと時間をかけて新宿まで行ったのにあまりに哀しい現実にせっかくだからと適当にぶらぶらと、史跡みたいなものは無いかと街頭にある地図の卍マークを漁りまくりました。
大学時代は通学の途中でもあった新宿には当時はネット通販などほぼ無いも同然でヨドバシカメラやさくらやによく足を運んでいましたがそういった散策はしたことが無くちょっと新鮮で、もっとも江戸だけに守備範囲の戦国時代のものは無いだろうなとの予想どおりで数多くのお寺はありましたが時代はハズレです。
ついででもないですが新宿御苑は駅名でしか認知していなくてものは試しと寄ってみれば、500円もしたためスルーです。
当日は前後の雨予報の中で唯一の晴れ日でだからこそよつばを求めて自転車野郎をしたのですが、晴れすぎてえらいことになってしまいました。
太宗寺
太宗寺は信州高遠藩内藤氏の菩提寺です。
内藤氏は徳川譜代で清成が徳川秀忠の傅役となって台頭し、嫡男の清次は家光の傅役と将軍近くに侍りました。
墓所には正勝、頼直、内藤氏累代の墓があります。
信州高遠藩とくくっていますが4代正勝までは安房勝山藩主で、高遠藩主としては正勝の娘婿である清枚が初代となります。
写真は中央が正勝、右が13代で廃藩置県を迎えた頼直、左が内藤氏累代の墓です。
西光庵
西光庵には尾張徳川家の墓所があります。
なぜに尾張なのに江戸にあるかは分からず、幕末の藩主のものなので明治維新後は江戸に住んだからなのかもしれません。
ただ遺骨は改葬されて今は名古屋にあるらしく、結果的に供養墓のような形になっています。
菩提寺ではなくても藩主の墓があるからか、お休み処や桶に葵の御紋が輝いていました。
帰ってきてから調べてみれば美濃高須藩松平家の墓所もあるらしくしかし案内などを見付けられず気が付かなかったため、かなりガッカリです。
墓所の門をくぐってすぐ右に折れてまっすぐ行くと、尾張徳川家累代の墓があります。
右横にある墓誌には義恕、義恭、義寛の名前が見て取れました。
義恕は尾張徳川家14代・17代慶勝の十一男、義恭は義恕の四男、義寛は長男で、義恭が早世したのに対して義寛は長命だったことでその順序なのでしょう。
その手前を右手に折れてすぐ左手に、16代義宜の墓です。
義宜は慶勝の三男で父が退いたときにはまだ幼少だったからか叔父の茂徳が15代となり、その養子となって後に16代藩主の座を譲られました。
しかし18歳で早世して父の慶勝が17代で藩主に復帰して、義宜が藩主だったときも父がほぼ実権を握っていて存在感は薄かったようです。
その奥にあるのが慶勝の墓です。
幕末の尾張藩と言えばやはり慶勝で、コーエーの維新の嵐にも登場したはずです。
尾張藩の支藩である高須藩の出身でよって西光庵に高須藩主の墓所もあるのでしょう、次男の慶勝が尾張藩を継いで五男の茂徳がその跡を襲い、六男の松平容保が一番に著名で会津藩で最後まで徹底抗戦して、八男の定敬は桑名藩主となり京都所司代を務めてこの4人は「高須四兄弟」と呼ばれて優秀さを讃えられました。